宙組バウホール公演 「ル プティジャルダン<幸せな庭>」
   〜悠未ひろ主役編〜

作演出 植田景子 音楽編曲 吉田優子 手島基子 装置 国包洋子 照明 佐渡孝冶
衣装 静川孝子 振り付 青木美保 菅沼伊万里

久々に研3から研7までの下級生だけの出演の舞台を見た。
同じ舞台を前半では上級生組が演じている。
バウホールの初期目的は演出家が大劇場公演とは違った斬新的な作品を
上演出来る様にということから建設された劇場と聞いている。

伝説的なシェフが作ったフランスのロワール川のほとりのレストランを
後継ぎの娘がたてなおしと称して現れ、ひと騒動の後めでたく終わるという話だ。

何処かで聞いたような話と考えると
あの劇団四季が公演した「クレージーフォーユー」に似ている。
あれは田舎町のつぶれかかった劇場を建て直しに来る話だ。

バウ公演の方はレストランだけに、いかにその豪華さフランス的雰囲気を
舞台に見せるか興味深々だった。


幕が開いて驚いた。装置がレストラン内部だけという所謂みてくれも悪い。
しかも重厚さがない。

外国ではテーブルクロスが多いほど高級レストランで
最高は4枚のテーブルクロスという店もある。
がこのル プティジャルダンはなんとテーブルにはクロスが無く
ひらひらのついたパーティ会場のテーブルカバーだ。
伝説シェフの写真はというと上手側にひっそりと、
せめて舞台正面に小林一三なんとか碑みたいにあるならいいが?

舞台は嘘を見せていく、舞台の上で貴婦人を演じるのは大変に難しいとよく言われる話だ。
それと同じようにフランスの素晴らしい雰囲気のレストランを見せるには
それ風<ふう>が必要だ、装置の周辺は書割で雰囲気を出すのもいいだろう。
とにかく大?レストランなのに、テーブル一つだけはないよ。
この芝居の主役はレストランなのだから。


さらに衣装が的外れだ。
とてもフランスのレストランのサーバーが着るものとは考えられないデザインだ。
中には外国で嫌がられる一見下着風の変な衣装までありびっくりだ。

本来フランスのサーバーはいつもタオルを腰にはさんでいるか、肩にかけている、
ワインの栓の抜き方もいろいろ有りその一つとっても芝居風になり雰囲気が出てくるものなのだ。


舞台はその雰囲気を見せ創り、初めて芝居になる。
だがこれはまったくフランスのレストランを知らない人が作った舞台としかいいようがない。

テーブルに置いてあるシャンペングラスも違う。
そうした小道具が如何に大切かこの演出家は気配りに欠けている。

肝心の芝居だが、これが宝塚特性の上級生がしっかりと全員を
下手でも纏め上げていくと言う雰囲気が無い。
そのため皆ばらばらで統一性が無く芝居も個々が好き勝手にしているみたいで
連携が感じられないのだ。これも演出の責任だ。


もともと作品に無理が有り、つじつまあわせしないといけないものだけに、
物語の盛り上がりも無いだけに演じる生徒にも無理が生まれる。

主役のアラン役の悠未ひろが芝居の仕方を理解してないので
セシル役娘役の和音美桜も一人で芝居しており
敵対心が愛に変わっていくというプロセスが感じられない。
宝塚男役は自分の魅力を見せるか、男役姿をみせるかだ。
娘役はイチオクターブ高い声で台詞を言う。そうでないと普通の女になってしまう。
その為華やかさがかけ舞台を暗くする。芝居に抑揚がないのだ。
台詞を言えば芝居になるではないのだ。しかしこれも演出の責任だろう。
台詞に説得性がないので普通の会話としかかんじない。
台詞を言う生徒も普段の会話の言い方だ。


観客は他愛ない生徒の動きで笑いが起こるがそれは個人的だ。
今日本航空だ、全日空だ、JR西日本だ、何処何処企業だとおかしくなっているが、
何か宝塚歌劇も変だ。ばらばらなのだ。

この作者も新聞のインタビューで
「時代の変化に対応するのも必要だが、その根っこに宝塚らしさが無いなら意味が無い」
と語っているのにそのらしさ、ふうがないのだ。

最近の演出家が作る作品はほとんどが、宝塚らしさが欠乏している。
作品全体が判る本当の意味の総合プロデューサーが求められる時だ。

芝居の事ではないが人参を持ち芝居する生徒がいるが季節は何時かわからないが、
フランスなら白いアスパラカスをふんだんに使ってほしい。
何で人参なのか理解できない。


パティシエ役パトリックの凪七瑠海<なぎな るうみ>前半の公演では
かなりの上級生が演じた役らしいが、本人が教えられて無いのか、
一生懸命しているが、肝心の部分が演じられない。

例えば舞台で芝居してる人に絡む所とか、パティシエが作ったケーキを
持って舞台に出て、歌う場面だ。
舞台正面きって自分を見せる仕方、
歌の所は出だしが口の中にこもり歌詞が判らない。
もっと口を大きく開けて歌い台詞をいうことを自覚して欲しい。
研3<入団3年目>でこれから伸びそうな素質を覗かせているのだから
外部の舞台を沢山見ることだ。


芸は物まねからだ、盗んで罪にならないのは芸だけ。
作品が悪くても宝塚は生徒が補ってくれるがこの作品を生徒が補うだけの
力量を持つ生徒が見当たらないのも寂しい。
生徒も外部の芝居を見て勉強して、いろいろな事を聞ける人を持って欲しい。


聞くところによると、今の宝塚は誉めて育てるとか、それでは育たないよ。
今回の出し物はミュージカルとだけ書かれているが、何処がミュージカルか判断に苦しむ。
スタッフを見るとあまり宝塚歌劇というものを理解してないのではないかと感じた。
装置も衣装もそして肝心の振り付が宝塚の踊りにならない振りで、
小劇団の踊り、フィナーレと言う感じだ。

演出の柴田侑宏はかって大地真央がトップになる時、
トップスターに喋らせる台詞に苦労する、
本人も観客も楽しませないといけないからと話していた。

座付き作者の心遣いだろう。

宝塚歌劇団も宝塚の伝統を継承させていくのなら、
こうしたスタッフの起用も厳選していかないと、生徒が可哀想だ。
その役目はプロデユサーのはずだ。
それは今回の芝居もそうだが生徒はいかなる台本ででも舞台でしなくてはならない、
これは否とはいえないのだから、それだけに植田紳爾の舞台創りを最低限意識して欲しい。

以前はメデイア関係者が取材などで訪れた稽古場で生徒は演出家とは別に
芝居に関してそうした人達からいろいろの事を学び演出家もそれを心得ていた。

宝塚歌劇を大切に見守る筆者としては再度亡くなった理事長だった市川さんの言葉を思い出す、
宝塚の舞台が作れないなら辞めていただきます。


かってある演出家がしのびの季節という生徒皆黒の頭巾で顔を隠した芝居を作った。
市川さんがファンは生徒の顔を見に来るのにと東京公演は顔が見えるように手直しさせた。
お陰で制作費が2億円余分にかかったと関係者は嘆いていたが、筋を通した話しだ。

それぐらい宝塚を大切に思っていたのだ。
何回も書くが伝統は大切です。
関係者は座付き作者とは何だかもう一度考えて欲しい。


バウホール観劇 2005年6月16日 14時30分 席 補4 4500円 ちゅー太

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